ごくろうさん!2007年04月30日 15時23分30秒

植木等さん、ありがとう、さよなら。
4月27日、青山葬儀所で行われた植木等さんのお別れの会に参列してきた。
正しくは、「植木等さん 夢をありがとう さよならの会」。

写真は、記帳をした際、御礼としていただいたカード。


こうしたスターのお別れ会に参列したのは初めて。私を含めた一般ファンは、会場外に設営されたテントで式の中継を見るという形式だったが、内田裕也のロック・スーダラ節には笑った。思い切り歌詞を忘れて、やり直すし、いまひとつリズム感ないし。植木さんは湿っぽいのは嫌いだろうから、という本人の意図以上に笑えました。
でも、歌う前に『笑わないで、笑ってください』と言った内田裕也の気持ちはよくわかる。よくわかったので、笑い泣きしてしまったぜ。
前座歌手として、クレージーキャッツと全国を回ったときの話もしていて、ちょっと裕也を尊敬しそうになった。


このあと紀尾井町の出版社で打ち合わせがあったので、最後までいられず残念だったのだが、会の締めくくりは、植木さんの「ごくろうさん!」の声だったそう。


会場には一人で行ったのだが、どうもファンの列の前方に元上司のTさんらしき人がいる。後ろ姿だけなので確証ないし、涙ぐんだりしてたのを見られると恥ずかしいので、そのまま声をかけずに帰ったのだが、駅で思い切り遭遇。しばらく立ち話をする。

私たちのいた会社(Tさんはまだ社員。リアルMr.Booとして知る人ぞ知る元宣伝マン)は映画会社とはいえ洋画配給なので、彼もあくまで一ファンとしてやってきたとのこと。Tさんは50代後半。彼らにとっての植木等は、本当にアイドルだったんだろうと思う。


私が物心ついた昭和43,4年頃はすでにクレージーキャッツは超大物だった。今でいうなら、クレージーがSMAPで、ドリフがTOKIOと嵐とKAT-TUN全部足したくらいか。微妙に違うんだが。実際、ドリフは浅草国際劇場で生公演を見たことがあるが、クレージーは生で見たことがない。
ちなみにその頃、日曜の夕方は、チャンネルはずっと4番固定だった。『笑点』→『プラチナ・ゴールデン・ショー』(フォーリーブスの番組)→『シャボン玉ホリデー』と続くんだもの、変えられるわけがない。


しかし、遅れてきたクレージー・ファンであるのに、どうしてこんなに思い入れがあるのかは一言では書けないが、個人的なことを言えば、子供の頃、父親が植木さんに似ていると言われるのが、とても嬉しかった。父と植木さんはほぼ同世代。当時、単身赴任でうちにあまりいなかったから、ちょっと怖い存在だったんだが、「植木等に似ている」(と実は私自身はあまり思ってなかった)と近所のオバサンとかに言われるとやっぱり嬉しかったのだ。


私は植木さんの突き抜けた、ドライな笑いが大好きなんだが、「おきあがりこぼし」というちょっとウェットなドラマも忘れられない。
植木さんはやもめのギタリストで、妻を亡くしたショックか、病気だったかでギターを弾けなくなるんだが、楽団仲間(もちろんクレージー)と子供の支えで復活する、という感じの人情喜劇。
今思えば、ダニー・ケイの音楽映画『五つの銅貨』のアレンジだったんだろう。ちなみにダニー・ケイは谷啓の名前の由来ね。


当時4歳くらいだった私は「やもめって何?」と親に聞いたのを覚えている。植木さんは『無責任男』シリーズでは父性のまったくない男を演じていたし、そこが大好きでもあり、時代を変えた理由の一つでもあると思うのだが、「おきあがりこぼし」は真逆で父性を感じさせるドラマだった・・・と思う。
何せ30年以上前の記憶で書いてますから。


今まで日本の芸能人の訃報を聞いて泣いたことはなかったが、
植木さんの訃報に激しく動揺してしまったのは、植木さん自身やその作品が大好きだったのはもちろん、やはり自分の父親が死ぬことの、疑似体験に近い感じだったからなのかなあ・・・、とちょっと冷静になってみると思えもする。要するに、昭和の終わり、ってことなのか。


ほんとに、ほんとに、植木さん、ごくろうさん、でした。

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